日本が生んだ世界の至宝、大谷翔平選手。今やドジャースで「17番」を背負い、メジャーリーグの顔として活躍していますが、日本のプロ野球ファン、特にファイターズファンにとって忘れられないのは日ハム時代の背番号11ではないでしょうか。あの若き二刀流が札幌ドームの真っさらなマウンドで躍動していた姿は、今も私たちの胸に焼き付いています。
なぜ彼は11番を背負うことになったのか、そしてその番号にはどのような歴史が刻まれているのか。この記事では、大谷日ハム背番号「11」にまつわる誕生秘話から、歴代の偉大な先人たちとの繋がり、そして現在へと受け継がれる物語を詳しく紐解いていきます。当時の興奮を思い出しながら、エースナンバーの系譜を一緒に辿ってみましょう。
大谷日ハム背番号「11」が誕生した理由と入団交渉の裏側

大谷翔平選手が北海道日本ハムファイターズに入団した際、その背番号が「11」に決まったことには非常に深い戦略とドラマがありました。当時、高校卒業後すぐにメジャーリーグへ挑戦することを明言していた大谷選手に対し、日ハム側が用意した「究極の誠意」こそが、この番号だったのです。ここではその入団交渉の舞台裏を詳しく見ていきましょう。
メジャー挑戦を断念させた「11」という提示
2012年のドラフト会議前、大谷選手は「メジャーリーグへの憧れが強い」として、日本のプロ野球球団に対し指名辞退を表明していました。しかし、日本ハムは強行指名を敢行します。指名後の交渉で、球団が大谷選手とその家族に提示したのが、30ページにも及ぶ「大谷翔平君 夢への道しるべ」という資料でした。そこには、日本での下積みが将来的な成功に繋がるデータが整然と並べられていました。
その誠意の象徴として用意されたのが、前年まで絶対的エースとして君臨したダルビッシュ有投手の背番号11です。球団は、単なる新人選手としてではなく、世界へ羽ばたく前提の「特別なエース候補」として彼を迎え入れる姿勢を明確にしました。この背番号の提示は、大谷選手が心を動かす大きな要因の一つとなりました。
結果として大谷選手は「二刀流」という未踏の挑戦を、この11番と共に歩む決意を固めたのです。当時の栗山英樹監督の熱意と、伝統ある番号を空けて待っていた球団の覚悟が、伝説の幕開けを作ったと言えるでしょう。
ダルビッシュ有から受け継がれたエースの象徴
日本ハムにおける「11」は、単なる投手の背番号ではありません。2005年から2011年まで、ダルビッシュ有投手がこの番号を背負い、日本を代表するエースへと上り詰めました。ダルビッシュ投手は在籍7年間で数多くのタイトルを獲得し、チームを2度の日本一へと導いた功労者です。
ダルビッシュ投手がメジャーへ移籍した2012年、11番は空き番号となっていました。その空位をたった1年で埋めることになったのが、大谷選手です。ダルビッシュ投手が築き上げた「圧倒的な実力でチームを勝たせる」というイメージを、大谷選手がどのように引き継ぐのか、ファンの間でも大きな注目が集まりました。
入団会見で11番のユニフォームに袖を通した大谷選手の姿を見て、多くのファンがダルビッシュ投手の面影を重ねつつ、新しい時代の到来を確信しました。エースからエースへ、魂がバトンタッチされた瞬間でした。
異例の「二刀流」を支えた背番号の重み
通常、エースナンバーといえば「18」が一般的ですが、日ハムでは11番が「世界へ挑むエース」の象徴となっていました。大谷選手はこの番号を背負いながら、プロ野球界の常識を覆す二刀流に挑戦しました。投手としてだけではなく、打者としても主力となるというプランは、当初多くの反対意見もありました。
しかし、背負っている番号がダルビッシュという偉大な前任者を持つ「11」であったからこそ、大谷選手にはその重圧を跳ね返すだけの覚悟が備わったのかもしれません。彼はインタビューでも度々、番号の重みに触れつつ「自分らしい11番を作っていきたい」と語っていました。
打席に立つ際も、マウンドに上がる際も、背中で語る「11」の数字。それは、不可能を可能にする象徴として、北海道のファンの心に刻まれていくことになります。背番号が持つ魔力が、大谷翔平という稀代の才能をさらに輝かせたと言っても過言ではありません。
大谷選手の日ハム入団時のポイント
・「夢への道しるべ」という資料でメジャー挑戦を検討していた大谷選手を説得した。
・ダルビッシュ有投手の後継者として背番号「11」を提示した。
・二刀流という新しい野球の形をこの番号と共にスタートさせた。
日ハムにおける背番号11の歴史と歴代のスター選手たち

大谷翔平選手やダルビッシュ有投手の印象が非常に強い背番号11ですが、日本ハムファイターズ(前身のセネタース、東急、東映、日拓含む)の歴史を遡ると、意外な名選手たちがこの番号を背負ってきました。ここでは、11番が歩んできた変遷を辿ります。
戦後から続くファイターズ背番号11の変遷
1946年のセネタース結成当時、最初に11番を着けたのは家村相太郎選手でした。その後も様々な選手がこの番号を背負いましたが、実は初期のファイターズにおいて11番は必ずしも「投手のエースナンバー」として固定されていたわけではありません。捕手や内野手が着ける時期もあり、その用途は多岐にわたっていました。
1970年代から80年代にかけては、藤原真投手や石井邦彦投手といった右腕たちがこの番号を背負い、徐々に「期待の本格派投手」の番号というイメージが定着し始めます。とはいえ、まだ巨人の「18」のように、球団の顔としてのステータスを確立するには至っていませんでした。
大きな転換点となったのは、1980年代後半に他球団から移籍してきたベテラン選手の存在です。ここから11番の歴史は、さらに興味深い方向へと動き出します。次の項目でその意外なスター選手について触れていきましょう。
投手だけでなく強打者・大島康徳も背負った時代
1988年、中日ドラゴンズから日本ハムに移籍してきたのが、名打者の大島康徳選手です。驚くべきことに、彼は移籍当初から引退する1994年まで背番号11を背負いました。投手専用と思われがちな11番を、通算2000安打を達成した強打者が着けていた事実は、今のファンからすると新鮮に映るかもしれません。
大島選手はベテランらしい勝負強さでチームを牽引し、11番を「頼れる主軸打者」の象徴に変えました。この「打者としての11番」という実績があったからこそ、後に大谷選手が二刀流として11番を着ける際にも、不思議な縁を感じさせたものです。
その後、1990年代後半には山原和敏投手や山口弘佑投手といった期待の若手が引き継ぎましたが、11番が真の意味で「絶対的守護神・エース」の輝きを放つのは、21世紀に入ってからのことです。
ダルビッシュ有が確立した「世界へ羽ばたくエース」のイメージ
2005年、ドラフト1位で入団したダルビッシュ有投手が11番を選んだことで、この番号の運命は劇的に変わりました。彼がマウンドで見せる圧倒的なパフォーマンスと、北海道移転後のチームの快進撃が重なり、11番は「パ・リーグ最強の投手」を意味する番号となったのです。
ダルビッシュ投手は、2007年には沢村賞を受賞し、チームをリーグ連覇へと導きました。彼が11番を背負ってメジャーリーグへと旅立ったことで、この番号には「日本を代表して世界へ挑戦する者の番号」という、極めて高い付加価値がつきました。
この歴史があったからこそ、大谷選手への11番提示は最高級のオファーとなり得たのです。ダルビッシュ投手が築いた王道の系譜が、大谷翔平というさらなる天才を呼び込む土壌を作ったと言えるでしょう。
背番号11と共に歩んだ大谷翔平の伝説的な5年間

2013年から2017年まで、大谷翔平選手が日ハムの背番号11を背負った5年間は、まさに日本プロ野球の歴史が動いた瞬間でした。11番がマウンドとバッターボックスの両方で輝き、世界中がその動向に注目していました。各年度のハイライトを振り返りましょう。
二刀流が結実した2014年の10勝・10本塁打
プロ1年目の2013年、背番号11を着けた大谷選手は、投手として3勝、打者として3本塁打と、二刀流の第一歩を踏み出しました。しかし、その真価が世界に知れ渡ったのは2年目の2014年です。この年、彼は「11勝、10本塁打」という、日本プロ野球史上初の2ケタ勝利・2ケタ本塁打を達成しました。
背負っている11番の数字が示す通り、エース級の白星を挙げながら、主軸打者としてもスタンドに放り込む。かつてベーブ・ルースが行った伝説を現代に蘇らせた姿に、ファンは熱狂しました。この頃から「11番=大谷翔平」というイメージが全国区となり、子供たちの憧れの的となりました。
オールスターゲームでは162キロを計測するなど、数字以上の衝撃をファンに与え続けた時期でもあります。11番が「不可能を可能にする魔法の数字」に見えたのも、この頃の大活躍があったからです。
投手三冠に輝いた2015年の圧倒的な支配力
2015年、背番号11はマウンド上でさらなる進化を遂げます。大谷選手はこの年、15勝、防御率2.24、勝率.750を記録し、最多勝利、最優秀防御率、最高勝率の「投手三冠」に輝きました。バッターとしても存在感を示していましたが、この年は特に「エースとしての11番」が際立ったシーズンでした。
投手としての立ち姿には、かつての11番オーナーであるダルビッシュ投手を彷彿とさせる凄みがありました。ピンチでも動じず、160キロを超える直球とキレ味鋭い変化球で相手打者をねじ伏せる。札幌ドームに「11」が掲示されるたび、ファンは勝利を確信していました。
この圧倒的な成績により、大谷選手は名実ともにパ・リーグ、そして日本球界の顔となりました。背番号11はもはや日ハムだけの番号ではなく、日本一の投手の代名詞となったのです。
日本一とMVPを手にした2016年のドラマ
大谷選手の日ハム時代における最大のクライマックスは、2016年に訪れます。この年、彼は投手として10勝、打者として22本塁打、打率.322という驚異的な数字を残し、チームを10年ぶりの日本一へと導きました。パ・リーグのMVPに選ばれたのは、当然の結果と言えるでしょう。
特にソフトバンクとのクライマックスシリーズ最終戦、DH解除で自らマウンドに上がり、当時のNPB最速となる165キロをマークしたシーンは伝説です。背中を向けた11番の選手が放つ気迫に、球場全体が震えました。打っても守っても、常に背番号11がチームの中心にいました。
日本シリーズを制し、マウンド上で歓喜の輪に加わる11番の姿は、北海道のファンにとって最高のご褒美となりました。この5年間の集大成とも言える大活躍を経て、大谷選手はさらなる高み、メジャーリーグへと羽ばたくことになります。
大谷翔平・日ハム時代の主な表彰・記録
・MVP(2016年)
・最多勝利(2015年)
・最優秀防御率(2015年)
・最高勝率(2015年)
・ベストナイン(投手・指名打者のダブル受賞)
なぜメジャーでは「11」ではないのか?背番号17への変化

大谷選手が2018年にロサンゼルス・エンゼルスへ移籍した際、多くのファンは彼が引き続き「11番」を背負うのか注目していました。しかし、彼が選んだのは「17番」。なぜ愛着のある11番を離れ、新しい数字を選んだのか。そこにはメジャー特有の事情と、彼なりの想いがありました。
エンゼルスで11番が永久欠番だったという事情
まず大きな物理的な理由として、エンゼルスの背番号11は、ジム・フレゴシ氏(かつての名遊撃手・監督)を称える永久欠番となっていたことが挙げられます。そのため、どれほど大谷選手が希望したとしても、物理的に11番を着用することは不可能でした。
永久欠番とは、球団に多大な貢献をした功労者の功績を讃え、二度と他の選手が使えないようにする制度です。大谷選手はこれに敬意を払い、空いている番号の中から自分の新たな相棒となる数字を探すことになりました。そこで選ばれたのが「17」でした。
「11が使えないから適当に選んだ」わけではなく、心機一転、新しい環境で一から歴史を作るという彼の意志も含まれていたと言われています。結果として今では、17番は大谷選手の代名詞として世界中で認識されるようになりました。
日本代表で背負い続ける「16」と野茂英雄への敬意
大谷選手は、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)などの日本代表「侍ジャパン」では、一貫して「16番」を背負っています。実は、代表でも11番が空いているケースはあったのですが、彼はあえて16番を選択してきました。
この「16」には、かつて日本人メジャーリーガーの先駆者として道を切り拓いた野茂英雄氏への敬意が込められているとされています。野茂氏がドジャースなどで背負った16番を身に纏うことで、先人の開拓者精神を受け継ぎ、世界と戦うという覚悟の現れでしょう。
日ハム時代の11番が「日本での飛躍」の象徴だったのに対し、代表の16番は「世界への敬意と挑戦」を象徴していると言えます。どの番号を背負っても、その数字の意味を理解し、最高のパフォーマンスに変えるのが大谷流の流儀です。
ドジャースでも変わらぬ「17」への愛着
2024年シーズンからロサンゼルス・ドジャースに移籍した大谷選手ですが、ここでも引き続き背番号は「17」となっています。移籍に際しては、それまで17番を着けていたジョー・ケリー投手が快く番号を譲ったエピソードも有名です。大谷選手はそのお礼として、ケリー投手の妻に高級車を贈るという粋な計らいを見せました。
現在では「大谷翔平=17」というイメージがメジャーリーグ全体に定着しており、ユニフォームの売り上げも世界一を記録しています。エンゼルスで築き上げたMVP受賞などの輝かしい実績を、ドジャースでも「17」と共に継続していくことを選びました。
日ハムファンとしては少し寂しいかもしれませんが、メジャーでの「17」の活躍も、元を辿れば日ハム時代の「11」での経験があったからこそです。11から始まった彼の物語は、今や17となって世界を席巻しています。
| 所属チーム・代表 | 背番号 | 主な理由・背景 |
|---|---|---|
| 日本ハムファイターズ | 11 | ダルビッシュ有の後継者として球団が提示 |
| エンゼルス | 17 | 11番が永久欠番。心機一転、新たな挑戦 |
| ドジャース | 17 | ケリー選手から譲り受け、メジャーの象徴に |
| 侍ジャパン(日本代表) | 16 | 野茂英雄氏への敬意を込めた開拓者番号 |
大谷翔平の後の日ハム背番号11はどうなった?

大谷選手が2017年を最後にファイターズを去った後、多くのファンが気にしたのが「次に誰が11番を着けるのか」ということでした。あまりにも偉大な前任者が二人続いたため、この番号を背負うハードルは極限まで高まっていました。その後の11番の行方を追ってみましょう。
4年間の欠番期間を経て次世代へ託された思い
2018年に大谷選手が渡米した後、日本ハムの背番号11はしばらくの間、着用する選手がいない「欠番」状態となっていました。これは公式な永久欠番ではありませんでしたが、球団側も「11番の重みにふさわしい選手が現れるまで待つ」という、準永久欠番のような扱いをしていました。
ファンの中には「いっそ永久欠番にしてほしい」という声もありましたが、球団はあくまで「新しいエースを育てるための目標」としての11番を大切にしました。誰も着けていないユニフォームの11番が、球場で見られない日々が4年間続きました。
その沈黙が破られたのは、2021年のドラフト会議後です。未来のエース候補として指名された一人の若き投手に、ついに伝説の継承が託されることになったのです。
2022年入団の大型右腕・達孝太が継承した意味
2022年、ドラフト1位で入団した達孝太(たつ こうた)投手が、5年ぶりに背番号11を着用することになりました。達投手は身長194センチの大型右腕で、恵まれた体格やクレバーな思考が、若き日の大谷選手やダルビッシュ投手を彷彿とさせる期待の星です。
達投手自身、この番号を背負うことについて「光栄だがプレッシャーは感じない。自分らしい投手になりたい」と頼もしい言葉を残しています。球団が彼にこの番号を与えたのは、単に空いているからではなく、彼の中に「世界へ羽ばたく資質」を見出したからに他なりません。
現在はまだ1軍での実績を積み上げている段階ですが、11番を背負ってマウンドに立つ彼の姿に、ファンは新しい時代の幕開けを感じています。いつか大谷選手のように、世界を驚かせるエースへと成長することを誰もが願っています。
新球場のランドマーク「TOWER 11」に刻まれた功績
背番号11の物語は、ユニフォームの上だけにとどまりません。2023年に開業した日本ハムの新しい本拠地、エスコンフィールドHOKKAIDOには、
という名のランドマークとなる建物が併設されています。
この名称の由来は、もちろんダルビッシュ有投手と大谷翔平選手の背番号「11」への敬意からきています。建物の壁面には二人の巨大なアートが描かれており、球場を訪れるファンや観光客を圧倒します。建物内には温泉やサウナ、ホテルがあり、試合を見ながらリラックスできる世界初の施設となっています。
永久欠番ではないものの、球団の象徴として建物にまでその名を刻まれた「11」。大谷選手が日ハムで背負ったこの番号は、今も形を変えて北海道の地に残り続け、新しいファンに勇気と誇りを与え続けています。
まとめ:大谷日ハム背番号11は未来のエースへの道標
大谷翔平選手が日本ハムファイターズで背負った背番号11。それは、単なるユニフォームの数字ではなく、ダルビッシュ有投手から受け継がれた「世界へ挑むエースの魂」そのものでした。メジャー挑戦を考えていた若者を翻弄し、二刀流という伝説の扉を開かせたのも、この番号が持つ重みと誠意があったからこそです。
日ハム時代の5年間、大谷選手はこの11番と共に、投手三冠や165キロ、そして日本一という数々の金字塔を打ち立てました。現在はメジャーで17番として活躍していますが、彼の原点には常に北海道での11番があります。そして今、その番号は達孝太投手へと引き継がれ、次なる夢に向かって動き出しています。
エスコンフィールドにそびえ立つ「TOWER 11」を見上げるたび、私たちは大谷選手がこの番号で私たちに見せてくれた夢を思い出すでしょう。背番号11はこれからも、ファイターズというチームが誇る最高の「エースの系譜」として、未来永劫語り継がれていくに違いありません。



